【第2話】荻野智博、流産のショックで出勤できない状態が続く

主役
●荻野智博(おぎの ともひろ)塾講師歴15年のベテラン。厄年の40歳。妻の流産、もう子供ができない身体であることを知り失意のどん底へ。約五ヶ月の期間、会社を休職し、新しい地区で復帰。そこで同じように数か月間登校拒否で苦しむ蝶野菜々に出会う。
●蝶野菜々(ちょうの なな)中学二年生。部活のトラブルで登校拒否になり、約五ヶ月間引きこもる。たまたま自宅にポスティングで届けられた塾の広告チラシを見て勇気づけられ、中学三年生の春期講習会に参加することを決める。
脇役
●村上乃愛(むらかみ のあ)新中学三年生。中学校は違うが、蝶野菜々と同じ初めて講習会に参加する男子生徒。かなりのイケメンで女子からの人気が高い。毎日自習室で勉強を頑張る蝶野菜々の姿に感銘を受ける。
●登(のぼり)講師。思ったことをズケズケ云うタイプ。荻野智博の熱意溢れる行動に共感を抱く。
●安達(あだち)講師。まだ若く、おどおどしている感じは否めない。登にいつもいじられている。
●中村(なかむら)講師。中堅講師。滝川洗練会を引っ張っている。
●佐々木愛華(ささき あいか)講師。以前荻野が所属していた地区の部下。荻野の公認として奮闘する。
●荻野綾子(おぎの あやこ)荻野智博の妻。流産し、子供を産めない身体になる。
●蝶野良子(ちょうの りょうこ)蝶野菜々の母親。病院に看護師として勤務している。母子家庭でここまで育ててきたが、蝶野菜々の不登校の一件以来、親としての自信を失っている。そのため再婚に焦っている。
●伊藤(いとう)土木業勤務。蝶野菜々の母親の再婚相手。中卒。不登校の名蝶野菜々の様子を知り、高校に行かずに働くよう命令する。かなりの亭主関白で、DVの気が強い。
小説家 ろひもと 理穂
第2話 荻野智博、流産のショックで出勤できない状態が続く
塾生の中学生たちがみんな帰宅して、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った教室で、佐々木愛華はため息をつきながら椅子に腰を掛けた。
ウェットティシュでチョークまみれになった両手を拭く。
「佐々木さん、こっちの教室の掃除、終わりましたけど、どうしますか?」
教室の入り口付近から非常勤のアルバイトの青年がそう話しかけてきた。
佐々木愛華は座ったまま、顔だけをそちらに向けて、
「ありがとう。もうあがっていいよ。後は私がやっておくから」
「そうですか。では、お疲れさまでした」
「お疲れさま」
また明日もよろしくね、と云おうとしている自分に気づいて佐々木愛華はハッとした。
教室長と呼ばれる、学校でいうところの担任が休んでからもう三日が経つ。
その間、教室長代行ということで職歴二年目の佐々木愛華がそれを担っていた。
この教室の担任は本来ならば、荻野智博である。
生徒たちも荻野智博の熱意溢れるわかりやすい数学の授業を受けるのを楽しみ出席しているのだが、代わりに教壇に立っているのは大学三年生の非常勤講師だった。
授業は当然ながら粗削りでわかりにくく、生徒との距離感も講師としての威厳を感じさせないものだった。一部の生徒の表情はすでに曇っていて、失望感に満ちている。
地区の人気講師の代役など非常勤講師には荷が重い。
それは、教室長としての佐々木愛華の係わり方についても同じことがいえる。
隣でいつも荻野智博の仕事ぶりは見てきたつもりだったが、それをいざ自分でやろうとすると戸惑いを隠せない。
「わかった」と「できる」は違うと、荻野智博はよく生徒に云って聞かせていたが、まさにその通りだった。
塾長の話だと荻野智博の奥さんが流産したらしい。三十八歳の高齢出産だった。
結婚も、出産もまだ二十五歳の佐々木愛華にとっては雲をつかむような話だ。現実的にイメージするのは難しい。ただ、荻野智博が子供の誕生を心待ちにしていたことはわかっていた。最近の荻野智博の笑顔がそれを如実に物語っていたからだ。
冬期講習会の一般生の募集もそんな荻野智博の幸せぶりに比例するように好調で、十一月にして目標の八割を突破しており、目標達成ももう目前である。
しかし、荻野智博が休んでからこの三日、募集の状況もピタリと止まっていた。
過去に講習会に足を運んでくれたお客様に電話をかけての営業も必要になってきているが、引継ぎが上手くいっておらずに佐々木愛華も動きにくいという現状がある。
この三日、荻野智博から佐々木愛華への連絡はまったくなかった。
日々、状況のやり取りなどをLINEを通じて行ってもきたが、それすらない。
佐々木愛華は鞄からスマートフォンを取り出し、画面を見つめる。
LINEは何通か届いていたが、荻野智博からのものはなかった。
おそらくそれだけショックを受けているということだろう。仕事のことなど考えられない状態なのかもしれない。
佐々木愛華の口から自然とため息が漏れていた。
ブルルル、ブルルル、ブルルル……
突然、手元のスマートフォンが震えだして驚いた。
発信元をすぐに確認する。
塾長の二文字、落胆とともに佐々木愛華は通話のボタンを押した。
「お疲れさまです。はい。そうですね。変わったことは特にありません。非常勤講師の方も頑張ってくれています。募集ですか?ゼロです。申し訳ありません。情報も今日は聞けませんでした……はい。はい。大丈夫です。荻野さんから連絡はありましたか?……そうですか。わかりました。お疲れさまです。失礼いたします」
塾長に向けても連絡はなかったようだ。
大丈夫だろうかという心配の気持ちとともに、自分がその穴を埋めなければという責任を負う気持ちの両方が佐々木愛華にはあった。
出席簿に挟まっている一枚のカードを手に取る。
個人情報が書いてあり、その上に大きく「ダブリ」と書き加えられていた。すでに講習会に申し込みしている生徒の情報だった。荻野が以前に先に電話で申し込みを受けている。
これは「紹介カード」というもので、この塾では塾生伝えの紹介を一番に奨励していた。頑張り屋の友達もきっと頑張り屋。さらに情報も追いやすい。ド新規の生徒は情報も曖昧で、破天荒な生徒である危険性もあった。そんな子が一人教室に混じっただけでムードは一変する。
無気力やネガティブは簡単に伝染するからである。
講習会の募集はこの紹介カードがメインで行われている。
だから講師は毎回の授業に入る時に、生徒からこのカードが出てくることを心待ちにしていたし、何も出てこないと落胆した。
そして希望を込めてまた全員にこのカードを配る。
「またこれー」「もう友達いないから」「他の塾に行くって云ってたよ」
などといった反応などお構いなしに配る。そして改めて友人制度の重要性や、たくさんの生徒がいる講習会のメリットを話すのだ。
塾は学校と違い、教育だけに力を入れていればいいわけではない。営業という側面も強くもっている。その両輪が綺麗に回っている教室こそが評価される教室だった。
荻野智博は授業だけでなく、営業も上手かった。だからこそここは、二百名を超える大きな教室になっているのだ。
このダブリのカードも荻野智博の立派な戦略だ。電話で先に営業して申し込みを受け、改めて紹介カードを塾生伝えで提出させて教室の雰囲気を盛り上げる。
授業にせよ、運営にせよ、どちらにせよ荻野智博が不在なのは大きな痛手だ。その代行役がそう簡単に務まるわけもなかった。
佐々木愛華はチョークで荒れた自分の手を見てため息をつき、顔を上げて時計を見た。
午後十一時二十分。
電話をするにはさすがに遅い。
せめてLINEだけでもしておこう。そう思い、佐々木愛華は荻野智博に向けてメッセージを送った。
あくまでも仕事に関する内容である。そう自分に云い聞かせた。
しかし、あくる日になってもそのメッセージが既読になることはなかった。
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